証(あかし)

イエス様との出会い(K姉妹)

私は、クリスチャンホームに生まれ、幼いころから毎週日曜学校に行き、神様の存在も、イエス様の十字架と復活も疑うことなく当たり前のように信じて育ちました。中学生になり、日曜学校の先生に洗礼をすすめられたのですが、その時は、まだ自分には早いような気がして、何かと理由をつけて断り続けました。しかし、そんな頑なな心にもイエス様は触れて下さり、イエス様と共に歩みたいと思う心へと変えて下さいました。そして中学 3 年生の時にイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。

私は、洗礼を受けたら自分が180℃変わるようなことを期待していたのですが、洗礼後の私の生活は・・・というと、洗礼を受ける前の生活と大きく変わることはありませんでした。日曜日は当たり前のように教会に行きますが、月曜日から土曜日までは神様以外のものが心を占めている状態でした。それなりに楽しく、順調な毎日を送っていましたが、いつからかだんだんと罪の意識に悩まされるようになりました。日曜日だけ神様を礼拝するような自分に嫌気がさすようになっていきました。また、神様ではなく、いつも人の目を気にして、自分を良く見せようとするそんな自分も嫌いでした。いつしか、私はそんな自分を変えたい、生活を変えたいと思うようになりましたが、自分ではどうすることもできないまま時が過ぎて行きました。

そんな中、20才の時に、大きな悩みにぶつかることになりました。人との関係において、うまくいいかないことがあり、相手や周りの人を責める思いと、相手を傷つけてしまった罪悪感で、心にまったく平安が無くなりました。自分を正当化し、相手を心から赦すことができなくなってしまいました。私は、神様が愛のお方であり、互いに愛し合うことを喜ばれると知っていたので、何度も相手を赦したいと思い、そのことを忘れようと努力をしました。しかし、なかなか忘れられず、自分ではどうすることもできない感情に苦しみました。そして、思い出すたびに胸が締め付けられるような感覚をおぼえるようになり、もやもやした心のままそれが半年以上続きました。

ある日、礼拝のメッセージの中で、2つの御言葉が私の心に響いてきました。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
マルコ12:31

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」
第1ヨハネ4:20~21

それまで何度となく聞いた御言葉ではありましたが、この時はっきりと自分のこととして受け取ることができました。御言葉を通して、口先だけで神様を愛していた弱い、罪深い自分の姿をはっきりと示されたのです。そんな自分に向き合うことはとても悲しかったですが、私を罪から救うために十字架にかかって下さったイエス様の深い愛を再確認し、祈りの中で感謝が溢れてきました。そして、今までのことを悔い改め全てを神様に委ねるようにと導かれました。それから何日かして、ずっと続いていた胸が締め付けられる感覚が、癒されてまったく消え去りました。また、私が傷つけてしまった人との関係も、少しずつ修復して下さり、以前のような関係にまで回復させて下さいました。ただただ、神様の憐れみと恵みに心から感謝致します。

私は、このことを通して、イエス様が私の人生に関わってくださる生ける本当の神様であることを体験させていただきました。自分の努力ではどうすることもできなかった罪の問題を、神様が赦して下さり、解放と平安を与えて下さったことに心から感謝致します。今日まで忍耐を持って導いて下さった神様が、これからも共にいて下さることに感謝し、信頼し従い続けて行きたいと願います。 全ての栄光を主にお返ししお証とさせていただきます。
2021年5月

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